戦後の「八紘一宇」の塔

 

 1945年、日本は、敗戦とともに、明治以降戦争によって拡大していった領土の全てを失うことになりました。翌19461月、塔から「八紘一宇」の文字と前述の四つの遺跡が「武装解除・非軍事化」による日本の民主化を目指す占領軍の命令「神道指令」(19451215日)で撤去されました。また、「八紘一宇」という塔の名称の変更も占領軍から求められたようですが、いつ、どのような経緯で「平和の塔」と呼ばれるようになったのか正確にはわかっていません。

  

  宮崎は観光で有名になり、 県は1957年には「塔」周辺一帯を「平和台公園」と命名しました。安保闘争の年1960年が過ぎると、日本経済は飛躍的な成長を遂げて行き、1968年には国民総生産世界第3位となりました。県は、県財界の復元の動きに乗じ、 19629月、県民の反対を押し切って、工芸品として武神像復元を許可しました。1964年東京五輪(オリンピック)では、平和台公園を聖火リレー第2コースの起点(きてん)として誘致。黒木博知事は、五輪の精神と「八紘一宇」の精神は同じだという県民の一部の人たちの意向をうけて、五輪直後、 「八紘一宇」の文字を復元。さらに黒木知事は1971年には、剥ぎ取られた元の「由来碑」跡に「友好諸国から寄せられた切石」とか、「『八紘一宇』の文字が永遠の平和を祈念して」というように、虚偽の文章を書き込みました。以来観光ガイドには、「八紘一宇」の塔が史実と違う「平和の塔」として紹介されています。                

 

 虚偽の記述

黒木知事は1971年には、剥ぎ取られた元の「由来碑」跡に「友好諸国から寄せられた切石」とか、「『八紘一宇』の文字が永遠の平和を祈念して」というように、虚偽の文章を書き込みました。1940年当時、石を寄せた友好国とはどこの国を指してのことなのでしょうか?塔建設当時、戦争推進のスローガンであった「八紘一宇」が「永遠の平和を祈念した」言葉であるという誤った歴史認識を県が表明していることは大きな問題です。 

1964年東京オリンピックの時、聖火リレー第2起点として、平和台公園の「平和の塔」から出発しました。この年8月に、県観光協会(岩切章太郎会長)などから「八紘一宇文字復元」の陳情書が出されましたが聖火到着前に復元されませんでした。オリンピック祭典が終わった12月、またもや岩切県観光協会会長らは「八紘一宇文字復元」を県に陳情。黒木県知事は議会に諮らず、独断でこれを承認し、年明け早々の1965年1月8日文字復元工事が強行開始されました。